エグルストンの紳士協定

 

 

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去る2010年6月、原美術館での個展のために来日した写真家、ウィリアム・エグルストン氏にインタビューする機会を得た

このことを話すと、「もし自分がエグルストン氏に会っても、なにも訊くことがない」と、あるアーティストの友人が言った。
彼女自身も写真と映像を使って作品をつくるのだが、「
自分の思ってることは彼にはお見通しだろうし、自分も彼と同じことを感じていると思うから」だという。

それじゃまるで、
アイドルに思い焦がれるファンの少女の盲目的な妄想じゃないか、と眉を顰める方も多かろう。
しかし私にもその気持ちがよくわかる。エグルストンを神と師と仰ぐカメラ小僧のみなさまから総攻撃をく
らうこと必至なのだが、自身も同じような思いで取材に臨んだからだ。

人はだれでも、大人になり、多様な経験に揉まれ、
成熟するうちに、思春期に深く刻印された感受性のほどんどが摩耗し、薄れていくものだ。
しかし10代、20代の時分から、
そのヴィヴィッドさを変わらずに保ち続けている感覚があるとしたら、そこに関しては、言葉にはならないが、揺るぎのない、確信めいた安心感がないだろうか?

作家と同じ感覚を共有しているという安心感を抱いて初対面に臨む
とき、いわゆる美術作家のインタビューに求められるような、具体的な制作プロセスやテクニック、ひいては社会性や政治性、精神性に斬り込んでいくようなアプローチは、まったく蛇足のような気がしてしまう。
伝えたいのはただ、深い感謝とリスペクトの言葉だけなのに、と。



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エグルストン氏が「口の重い」「気難しい」人物らしい、という噂と、「抽象的な質問にはYES/NOしか答えない」という美術館からの情報が事前に入ってきた。取材日にあてられたその日は、昼から5媒体のインタビューが詰め込まれ、それも自分の前は後藤繁雄氏やホンマタカシ氏など錚々たる顔ぶれと聞いていたので、さすがに前夜から緊張した。

それでも「これだけは訊かないと取材にならない」という質問だけが、どうしても直前まで思い浮かばないのだ。おまけに私はカメラのことは無知同然で、ライカの何たるかも正確には理解していないのだった。

今日、最後の取材です、と言われて美術館のホールに案内される。
初夏の陽光にあふれた窓際のテーブルに、エグルストン氏が通訳の女性と並んで、くつろいだ様子で腰かけている。編集者と私は簡単な挨拶をして、話しはじめた。

「まず初めに、直接お話ししたいので、日々縮みゆく私の英語のボキャブラリーを許して下さいますか?」と言うと、氏はフンと鼻で笑って煙草(ショートホープ)を手にとった。
「アメリカの南部、ディープサウスと呼ばれる、
非常に保守的な土地柄の旧家に生まれ、今もそこを拠点にされていますね。男らしさ、について、こうあるべきという考えをお持ちですか? たとえば、昨夜のレセプションでも誰よりも先にグラスを手にしておられましたが、シガーとバーボンでスイッチが入る、というような、昔ながらの男らしいスタイル、ということかもしれませんが」。

「(少し考えて)そうだな。ときどきは、
スイッチが入ることもあるかもしれないな。あまり気に留めたことはないが」。

「というのは、私はあなたの写真を見て、
地に足のついた気骨ある紳士という印象と同時に、とてもフェミニンな印象をうけるんです」。

「フェミニンか。・・・それは、あるかもしれない。
意識したことはないがね」。

あなたのカメラアイにはジャーナリスティックな視点がないのです。どんな都市の人々にも、あなたを取り巻く社会にも、批評的な視線を向けていない。70年代の作品にメンフィスの夜の街で飲んでいる人たちを撮ったものがありますが、ナイトクラブで酔客にカメラを向けることは、あなたにとってたやすいことでしたか?」

「そりゃそうさ。むずかしいことはない。
いつも一緒に飲んでいる連中だからね。映像作品もそのとき撮ったんだ」
(この映像『Stranded in Canton』は見逃してしまったが、
そのイカレたタイトルは、ラストシーンでこの言葉を叫ぶ一人の酔っぱらいの台詞からとられたという)

彼は「One is Enough」と言った。



あなたがメンフィスの街で撮影しているところをドキュメンタリーで見ました。この映画ですよ」(と輸入板DVD*を見せる)

「見たことがないな。これはなんだね・・・ああ、ライナー(
監督)か? 資金不足でお蔵入りになったって聞いていたがな・・・そうか、完成したのか(ニヤリ)」

どんなシーンでもあなたが一度しかシャッターを切らないことに驚きました。隠された色や動く色をとらえる特別な動体視力ですね」

「かもしれないが・・・まあ、ワン・イズ・イナフ(
1ショットで充分)なのさ」(とにんまりと微笑み、人差し指をあげる)

「あなたのカメラアイには、
街の風景をゆっくりとたゆたうリズムがあります。それは地元のメンフィスも、パリや京都などの異国の都市も同じ、抑制の利いた速度で、迷いも野心もない。曇りガラスの向こうを見るような・・・そう、写真の後ろからサウンドトラックが聴こえてきそうな感じですね。マディ・ウォータースのブルースかしら?」

「それほど、ブルースが好き、というわけでもない。
昔のメンフィスには、歴史的なスタジオがいくつもあって、よく訪れたものだが。私が好きなのはバッハだ。・・・それと、ときには、ボー・ディドリーがいいね」。

「やっぱりそうですか!? ボー・ディドリー、しっくりきますね、とても。バディ・
ホリーはいかがですか?」

「バディ・ホリーも、好きだね。音楽にはうるさいほうでね。
音楽のことは理解しているつもりだ」

「映画監督ともずいぶん仕事をされていますね。
あなたのゆっくりとした視線の移動に「パリ、テキサス」のライ・クーダーのスライドギターが重なるときがあって、ヴェンダース監督はあなたの影響を受けたに違いないと思うんですが」

「いまの名前はなんだって?(スペリングを見て)・・・
知らないな。ドイツ人か? 今度見てみよう」

「たとえば今後、一緒に仕事をしてみたい映画監督はいますか?」

「そうだな。デヴィッド・リンチ、ソフィア・
コッポラと何かするかもしれない。ガス・ヴァン・サントやデヴィッド・バーンとは(スチルの撮影が)やりやすかったな」



色彩についての即興的告白。



原美術館の本展では、企画者であるカルティエ財団のアイデアにより、少年時代から長年にわたって描きためていたカラフルなドローイングの紙片を、写真作品と組み合わせて展示していた。
私はこの展示プランには少々違和感を覚え、
余分なひと手間に思えた。
作家にとってまったく別々の意図でつくられたものを、
キュレーターの解釈によって、あたかも関連するかのように見せる思わせぶりなやり方は、もったいぶった感じで、どうも好きになれないからだ。
しかし、この電話台のメモのいたずら描きのような、
ドローイングの無頓着さについては訊いてみたかった。

「写真とドローイングの、アプローチの違いはどうお考えですか? 組み合わされた作品には関連性があるのでしょうか」

「ドローイングと写真はまったく関係ない。
5歳ぐらいから絵を描くことが好きで、むしろ写真より絵を描いているほうが長いくらいだ。特別な理由はないが、続けていたんだ。発表する気などなくね。自分のためにコレクションしていたが、それについて多くを語ることもなかった。今回の展覧会の打合せのために(カルティエ財団の)エルベ・シャンデスたちが家に来たときに、倉庫の奥のほうから見つけ出して、絵と写真を結びつける構成を思いついた。色にフォーカスした展示をしたい、と言っていたからね」

「一連のドローイングは、色についてのあなたの即興的な告白、
ではないかと思っているのですが。写真が主旋律を歌うとすれば、ドローイングは基調になるコードのような存在では?」

「(しばらく考えた後、ウィンクをしながら)とても、
プライベートなものだ。色の構成は即興的で、あえて注意を払ってはいない」

エグルストン氏は、おもむろに、
ありふれたオレンジ色のソフトケースから愛用のライカを取り出し、その色について語りはじめる。

「このライカは特注で塗装したものでね。
ミリタリーグリーンにしたんだ。ほかにもダークブルーにペイントしたものがある。ケースは息子が見つけてくれたものだが、どうも合わないな。見るたびに違うと思うんだが……まあ仕方ないさ」。

あなたの愛機を見せていただけますか、と訊ねたわけではない。
ただちょっとした沈黙のしじまに、何げなく「見るかい?」
といった調子で。
その様子はまるで、
自分の分身のように大切なものをこっそり友だちに見せようとする少年のようだった。写真史に名を刻む巨匠の瞳が無邪気に輝くと、ふっと空気がやわらかくなった。

 

後に聞いて仰天したエピソード



3月に原美術館のメンバーが、ミーティングのためメンフィスの自邸を訪ねたとき、エグルストン氏は、数日前に酔って階段から落ち、首の骨を折る(!)満身創痍だった。傷だらけの姿を見て「展覧会のスタートを延期しましょう」と持ちかけたが、トラストを管理する右腕である息子は「彼の望むとおりにするべきだ」と言ったという。
結果、6月のオープニングには、足を引き摺りながらも、
ダークブルーのスーツにボウタイを粋に着こなしたエグルストン氏の姿があった。
紳士協定のもと、南部の男は責任をまっとうするのである。
そして私が訊ねたかった男らしさとは、エレガンスと同義語であると確信した。


*密着ドキュメンタリー映画
『William Eggleston: Photographer(原題)』
“オープニングはサーディン(鰯)缶のよう”とエグルストン夫人がコメントする同ドキュメンタリーは、原美術館のミュージアムショップで輸入盤DVDを発売中。



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